《念仏(南無阿弥陀仏)》 |
念仏(南無阿弥陀仏)を現代人が耳にするのは、大概、仏事の時である。そのイメージは、死者儀礼と結びついて、決して明るくはない。 “念仏”はもともと、仏を念ずる(見仏、観仏)ことであり、その仏とは、必ずしも阿弥陀仏とは限らなかった。けれども、阿弥陀仏の浄土に往生する浄土信仰が盛んになると、阿弥陀仏の名前を聞き、称(とな)えること(称名:しょうみょう)が念仏と同義となった。今日では、念仏と言えば、“南無阿弥陀仏”である。
念ずることよりも、称えることに重点が置かれるようになったのは、仏・菩薩・明王等の名を称えれば、他の行は要らず、称えるだけで、その仏・菩薩・明王等の徳を身に受けることができる、という信仰があったからであろう。 最近、マスコミで「元気をもらった」「勇気をもらった」という言い方を多く耳にするようになった。正確な言い回しは、「元気づけられた」「勇気づけられた」であろうが、言葉の意味するところは同じである。 仏の名を称えて、その徳にあずかる。現代的な言い回しでは、念仏して、「智慧をもらう」「慈悲をもらう」であろうか。 念仏を称えて、阿弥陀仏のお救いにあずかり、やがては浄土に生まれて、弥陀と同体のさとりを得させていただく。ここで注意しなければならないのは、念仏を称えての“念仏”である。この念仏の主体は、人間ではなく、阿弥陀仏である。念仏を称えることが徳になるのではなく、称える念仏に徳があるということである。 「元気をもらい」「勇気をもらう」と、それを与えたものは、元気を取られ、勇気を失いはしないかと要らぬ心配をするが、阿弥陀仏の智慧や慈悲の方は、アミターバ(智慧=無量光)、アミターユス(慈悲=無量寿)である。尽きることはない。
三界六道の闇を超過して、さとりの世界へ我々を生まれしめる念仏。決して暗いものではない。 浄土真宗のご本尊 浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来(仏)である。 門徒の家庭の仏壇では、絵像もしくは、名号を掛ける。これは、本山よりお迎えする。木像も目にすることがあるが、正式には、在家では木像を用いない。寺院の場合には側面からの礼拝があり、立体的な木像が必要とされるのである。 蓮如上人は、「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。」と言われているが、浄土真宗では特に、名号の仏さまを尊ぶ。阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏」(なんまんだぶ)とわが口をついて現れ、はたらいて(救済)下さる仏さまであるからである。 掛け軸より、石に刻むより、声にすべきが「南無阿弥陀仏」である。 |